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酒匂川の文命堤

さかいがわのぶんめいづつみ

基本情報

洪水の流れを巧みに制御した先人達の知恵

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施設データ

分類:河川
建設年:1726年(享保11年)
建設の背景(由来・ストーリー):1707年(宝永四年)の富士山噴火が原因で氾濫して足柄平野が荒地と化してしまった時、小田原藩主大久保氏は、自力復興が不可能な為、この領地を幕府に返還しました。
そこで幕府は当時南町奉行として名高かった大岡越前守に酒匂川を復興するように命じました。越前守はこの大任を果たす為に川崎宿の名圭田中丘隅に依頼しました。
築堤工事を任され丘隅は1720年(享保五年)から酒匂川大口附近の詳しい調査をし、1726年(享保十一年)2月より工事にとりかかり5月に完成しました。
堤には蛇篭に石を入れて積んだが、この中にお経を一巻ずつ入れたともいわれています。今でも「だらに堤」「ほっけ堤」などの名前が残っているのはその為でしょう。また人柱をいけたとも伝えられています。いかに堤が安全であることを神や仏に祈ったかがわかります。享保十一年に丘隅が建てた「文命堤」の記念碑には、今後人々は堤に来る時は必ず石を一つずつ持ってくるように、堤には木を植え、草などもむやみに刈らないように諭しています。
昔中国の禹という国の王が、黄河の洪水に悩まされ一生をかけて黄河の堤防を築いたので、その功績をたたえて「文命」という称号をもらい請けました。丘隅はこの伝説からとって大口堤を「文命堤」と名付けました。今の福沢神社のある堤が文命東堤で、岩流瀬橋の所が文命西堤と呼ばれました。この丘隅の立派な功績に対して幕府は百両という大金を与えました。ところが丘隅はその大金を水防組合の村々へ与えたので、これをもとにして以後、神社の祭典の費用としました。大口のお祭り(5月5日・6日)は今でも盛大に行われています。

出典:酒匂川探検HPより引用 icon
施設の役割:田中丘隅は1726(享保11)2月、工事にかかり、同年5月には完成させています。大口橋の北に200mの岩流瀬堤(文命西堤)をつくり、水流をローム層の赤岩に打ちつけ流れを弱めたあと、大口堤(文命東堤)180mをつくり、流れを東方に誘導しました。このような水の流れを制御しました。
文命堤は今も機能しており、桜並木・公園として整備されています。

出典:歴史人物授業のネタ HPより引用icon
関連する土木技術者:大岡忠相(大岡越前守忠相)の命により、川崎宿の名主・問屋役の田中丘隅が工事を執り行いました。

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文命堤は、最初は江戸時代初期の小田原城主であった大久保忠世・忠隣父子によって築かれたと伝えられています。
その後、洪水などで決壊することがあり、現在みられる堤は、徳川幕府の命を受けた田中丘隅や蓑笠之助によって修復を加えられたものです。堤の規模は、大口橋西側の千貫岩から総延長935m、幅は現在では40m程ああります。
文命堤の名称は、田中丘隅が中国の故事に因んで名付けたと言われます。丘隅は堤を守るために、文命宮(福沢神社)の祭典の時に石を一つずつ持参するように農民に命じたと伝えられており、堤の上には今でもその石が残っています。

出典:酒匂川探検HPより引用icon

 

施設の状態:供用中
所在地:神奈川県南足柄市怒田
アクセス:箱根鉄道大雄山線大雄山駅からバス・山北駅行き「大口」下車1分
見学方法(開館時間、入館料等):周辺は公園等にもなっており、自中に立入りが可能であり入園料等は必要なし。

周辺情報

周辺の歴史スポット

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        社会科見学

        プロのみどころポイント

        技術的特徴

        文命堤治水の基本的な考え方は岩流瀬の淵に激突した急流を、岩流瀬堤で誘導して大口堤の付け根の上流にある千貫岩山の淵に向けたものでした。もし岩流瀬堤が無ければ洪水の急流は大口堤にほぼ垂直に直撃することになります。こうなれば江戸時代の堤防の強度の限界上、大口堤の破堤は必至でした。洪水の直撃故か、大口堤が破堤するときは千貫岩の土手元100間(約180m)の区間が主でした。これを防ぐために、岩流瀬堤は言うならば急流の激突から大口堤を守る敷18間、高さ3間、天端7間もある巨大な一の出しとして機能したのでした。この手法は、近代以前の人工の構造物では防ぎようもなかった水の勢いを、地形条件を巧みにとり入れながら殺そうとした治水工法です。

        出典:「土木史研究 第10号 1990年6月 審査付論文」より引用したものです。

        その他

        出典:「土木史研究 第10号 1990年6月 審査付論文」より引用したものです。