TOP > 関東 > 隅田川

隅田川

すみだがわ

基本情報

様々なデザインの橋が架かる河川

拡大写真
  • 隅田川
  • 隅田川
  • 隅田川
  • 隅田川

クリックして
画像を拡大

施設データ

分類:河川
建設年:
建設の背景(由来・ストーリー):隅田川はもともと荒川の下流にあたり、江戸時代のころには「浅草川」、「隅田川」、「荒川」、「宮戸川」と呼ばれていました。明治43年の水害を契機に荒川放水路が作られ、その後、昭和39年の河川法改正により放水路の方を荒川、岩淵の水門から下流東京湾までの区間を正式に隅田川という名称としました。
昔は戦略上の理由から、川には橋を架けないのが普通でした。隅田川に架けられた最初の橋は千住大橋で1594年(文禄3)徳川家康によって架けられました。この千住大橋は伊達政宗が、水に強いとされる犬槇(いぬまき)を橋材に調達して架けられ、明治18年の大洪水まで約300年間一度も流失しなかったそうです。次に両国橋が架けられまで66年間隅田川に架かる唯一の橋でした。
江戸時代にはさらに永代橋、新大橋、吾妻橋が架けられたが吾妻橋のように民間人の手で架けられ通行料として橋銭が徴収される橋もありました。他に多くの渡し舟が運行されて住民の便に役立っていました。
現在、隅田川には人が渡れない橋もいれると36橋が架けられています。
関東大震災で多くの橋が被害を受けたためにその復興事業として昭和のはじめの時期に架け替えられたり修理された橋が多く、さらに近年交通量の増加にあわせて新規に架橋されています。この中で桜橋はただひとつ歩行者専用の橋として使われています。

出典:荒川水系隅田川流域河川整備計画 H19.6 東京都icon
出典:浅草の歴史と観光HPicon
施設の役割:住民の生活用水、農業用水、食料としての魚貝や海藻類の供給源、人や物資の輸送路として住民と深いかかわりを持ってきました。
特に江戸幕府が開かれてからは河川を利用した運送が経済を支え、関東一円から利根川水系を経由して東京湾へ繋がる隅田川はその川岸や川に通じる運河の周辺に、多くの倉庫が立ち並び運送業や旅客業が発展しました。また、屋形船や釣り舟、猪牙舟、渡し舟なども発展して川遊び、堰堤での花見、花火見物、交通手段として親しまれてきました。平時の隅田川は川幅や水量が人々の利用しやすい規模であり、江戸市中第一の歓楽地を控えた浅草が近いことなどから、多くの市民にとっての憩いの場所となっていました。
明治時代に入って工業化が進むと、船便による交通手段の利便性から川沿いに多くの工場が作られましたが、現在の南千住地区に国鉄の貨物駅が作られて貨物輸送の手段が徐々に近代化され、船便から鉄道さらに自動車輸送へと移行して船便の利用は減少して行きます。

出典:浅草の歴史と観光HPicon
関連する土木技術者:

Rate this post

隅田川は、岩淵水門で荒川から分派した後、新河岸川を合流させ、東京の東部低地帯の沿川7区(北区、足立区、荒川区、墨田区、台東区、中央区、江東区)を流下し、東京湾へ注ぐ荒川水系の一級河川です。流路延長は23.5km、流域面積は上流部の新河岸川流域をあわせて690.3km2です。
隅田川には多くの橋が架けられており、様々なデザインの橋が見られます。
橋の展覧会とも言われる隅田川の橋、関東大震災の復興事業として国は総力をあげて道路や橋の復旧に取り組みました。
同時にいくつもの橋を架けることになったのですが、橋の一つずつを特徴あるものとするために、個別に設計を行って均一的な方法は取りませんでした。日本に始めて登場した吊り橋の清橋、アーチ式の永代橋などの傑作が生み出されました。中にはいかにも頑丈そうな実用本位に見える橋もありますが、最近になって架けられた橋も含めてさまざまな構造、デザインの橋の競演という形になっています。

出典:荒川水系隅田川流域河川整備計画 H19.6 東京都icon
出典:浅草の歴史と観光HPicon

 

施設の状態:供用中
所在地:東京都
アクセス:
見学方法(開館時間、入館料等):制限なし

周辺情報

周辺の歴史スポット

    周辺の観光スポット

      周辺の宿泊・温泉

        口コミ・写真

        隅田川の平均評価
        Rate this post

        レビューを投稿する

         

        Optionally add an image (JPEG only)

        社会科見学

        プロのみどころポイント

        技術的特徴

        現在隅田川に架かっている景観に優れた代表的な橋について基礎構造を含めて紹介します。

        清洲橋
        清洲橋の名は、深川の清澄町と日本橋の中州を結ぶ橋であることに由来し、橋の新設にあたって公募で採用されたものです。ドイツのケルンの吊橋を手本にして、女性的な曲線美をもつ吊橋を架けることになりました。女性的で芸術的な立体構造を持つ本橋は、隅田川第一の美橋といわれています。基礎は地盤が軟弱のためニューマチックケーソン工法が採用され、全国に普及する足がかりとなりました。

        勝鬨橋
        我が国の代表的な可動橋として知られる本橋は、シカゴ型二葉式跳開橋で、第二次世界大戦前に完成した最後の橋梁です。架設当時は、我が国橋梁技術の粋として衆目を集めましたが、自動車交通の激増によりしだいに開くことが少なくなりました。

        出典:東京都地質調査業協会、技術ノートNo.40、東京都地質調査業協会、P.29~30、2007.11

        その他

        左記の清洲橋と勝鬨橋の構造図
        清洲橋の基礎構造
        勝鬨橋の基礎構造

        出典:東京都地質調査業協会、技術ノートNo.40、東京都地質調査業協会、P.30、2007.11