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利根川瀬替え

とねがわせがえ

基本情報

この瀬替えによって、利根川以南では旧河道や遊水地の変動は少なくなり、流域は安定。旧河道や遊水地を用水源や排水路として利用することで水田が拓かれました。

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施設データ

分類:河川
建設年:1590 年(天正18 年)に徳川家康の江戸入府を契機に江戸時代の初期約60 年間
建設の背景(由来・ストーリー):1590年、徳川家康は豊臣秀吉より関東八ヶ国を領することになります。当時の関東の石高はおよそ240万石。家康に対する秀吉のこの莫大な恩賞は、北条(ほうじょう)や千葉の残党対策であったとも言われています。当時の関東平野はまだ広大な荒れ地を残しており、その開発に動員することで彼らのエネルギーの拡散を狙ったという説です。
ようやく江戸時代になって開発が盛んになり始めた佐原(さわら)周辺ではとてつもない事変が起こります。
当時の利根川は江戸に流れ込んでおり、いわゆる香取(かとり)の海は、今の鬼怒川(きぬがわ)や霞ヶ浦(かすみがうら)周辺の河川が集まるところでした。
ところが、江戸初期に始まる利根川の瀬替えによって、利根川水系や渡良瀬川水系の水がこの香取の海に押し寄せ、従来の2倍の量の水が流れ込むことになったのです。
関東農政局HPicon
施設の役割:瀬替えは、江戸の水害対策、関東平野の開拓、銚子(ちょうし)と江戸を結ぶ水運、東北の雄藩への防御などいくつかの重要な目的を持っていました。佐原は、銚子から江戸への水運の中継点であり、千石船(せんごくぶね)が行き交う港として栄えることになります。
関東農政局HPicon
関連する土木技術者:忍城主であった家康の四男松平忠吉
徳川四天王の一人で上野館林城主であった榊原康政
三河譜代である家臣・伊奈忠次を祖とする伊奈氏
上野総社藩主・秋元長朝
忠次の系統は代官頭、後に関東郡代として12代伊奈忠尊
出典Wikipedia

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現在の利根川は、関東平野をほぼ西から東に向かって貫流し太平洋に注いでいますが、近世以前において、利根川、渡良瀬川、鬼怒川は各々別の河川として存在し、利根川は関東平野の中央部を南流し荒川を合わせて現在の隅田すみだ川筋から東京湾に注いでいました。
天正18 年(1590 年)に徳川家康の江戸入府を契機に江戸時代の初期約60 年間において数次にわたる付替え工事が行われ、この結果、利根川は太平洋に注ぐようになりました。この一連の工事は「利根川の東遷とうせん」と言われ、これにより現在の利根川の骨格が形成されたのです。
利根川水系河川整備基本方針icon

 

施設の状態:供用中
所在地:-
アクセス:-
見学方法(開館時間、入館料等):

周辺情報

周辺の歴史スポット

    周辺の観光スポット

      周辺の宿泊・温泉

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        レビュー(1 件)

        1. なまず
          Posted 2013年7月24日 at 12:57 PM | Permalink

          ダイナミック!!

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        社会科見学

        プロのみどころポイント

        技術的特徴

        戦国時代から大発展をとげていた技術で、世にいう「関東流」(伊奈流ともいいます)。用排兼用の関東流の利水形態では、常に下流の用水確保が上流の排水困難をまねき、開発が進むにつれて上流と下流の対立が顕在化しました。ここにきて関東流による新田開発は、技術的限界をむかえました。
        このころに登場するのが8代将軍吉宗です。吉宗は「享保の改革」推進のために新田開発を奨励し、紀州から井沢弥惣兵衛為永を召集(1722年)、彼のもつ土木技術を関東流に代わるものとして採用しました。いわゆる紀州流です。
        紀州流は、関東流の乗越堤や霞堤を取り払い、それまで蛇行していた河道を強固な築堤と川除・護岸などの水制工により直線状に固定しました。大河川中・下流地帯の主要部にはじめて高い連続堤が建設され、川の水は河川敷の中に押し込められました。これにより流作場や遊水地は廃止され、放置されていた中流の遊水地帯や下流の乱流デルタ地帯の新田開発が進められたのです。
        紀州流による干拓には、飯沼・見沼のほか、越後の紫雲寺潟など有名なものが多く存在しています。さらに、見沼代用水の開削にみられるように、紀州流は、河川中・下流の沖積地を対象に大河川からの直接取水により大規模な用水路を設けて取水量の増加を図り、排水河川を分離するなど、それまでの個別的・反復的な用排水システムを改良しました。これで従来からの上流の排水と下流の用水の矛盾は緩和され、この地域の用排水の基礎となる体系が成立したのです。


        出典:水土の礎 疎水名鑑

        その他

        出典:水土の礎 疎水名鑑